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オススメの逸品

調査員のおすすめの逸品№388 土器に何かが塗られている?!–尾張から近江へ持ち運ばれた須恵器甕–

大津市

 いきなりですが・・、皆さんが日常で使用している「器(うつわ)」を想像してみてください。ご飯を盛り付けるお茶碗やコーヒーを飲むためのコップ、サラダをよそうための平らなお皿や漬物を漬けるための壺(つぼ)など、たくさんの「器(うつわ)」を思い浮かべることでしょう。こうした「器」は、「焼き」物(やきもの)と呼ぶこともあります。何を用いて「焼いている(生産している)」かというと、窯で焼いています(画像1)。つまり、我々が普段使用している「器」の大半は、窯という密閉空間を用い、その中で焼かれたものなのです。

画像1 現代の窯

 では、日本で最初に窯を用いて焼かれた「器」はどのようなものなのでしょうか。ズバリ答えは、「須恵器(すえき)」と呼ばれる焼き物です。

 「須恵器」は今から約1600年前の古墳時代中期(西暦400年前後)に日本列島で製作され始めます。当時、韓半島(朝鮮半島)南部から日本列島へ来た渡来人によって、土器製作技術と窯焼成技術とが持ち込まれました。以降、窯を用いて焼いた須恵器という焼き物が日本列島で作られるようになります。

 今回は、そんな須恵器に焦点を当て、滋賀県の遺跡から出土した7世紀の逸品──当協会が発掘調査した南滋賀遺跡(大津市)では見つかった、奇妙な須恵器甕の破片──についてお話したいと思います。

 この須恵器の甕のどんなところが奇妙かというと、その口縁部の表面に、赤黒い液体のようなものが塗られているところです(画像2)。一般的に、この時代の須恵器の表面には何も塗っていません。滋賀県はもとより畿内のどの須恵器窯を調べても、このような土器が見つかることはありません。さて、この液体のようなものの正体、そして、これが塗られた土器の正体はいかなるものなのでしょう。

図1「黄土」を溶いて塗った須恵器の口縁部破片。左は写真で、右はそのスケッチ図。スケッチ図では「黄土」の付着部分を黒く塗ってある。

 実は、この須恵器、愛知県の尾張地域に所在する猿投窯(さなげよう)と呼ばれる窯で焼かれたものなのです。猿投窯では、7世紀前葉になると画像2のように土器の表面に液体を塗った須恵器を一定数生産するようになります。この液体は「黄土(おうど)」と呼ばれる粘土を水で溶いて泥水状にしたもので、これが塗られた甕を「黄土甕」と呼んでいます。この黄土を塗布した須恵器が猿投窯で生産された背景については、まだよくわかっていませんが、どうも尾張地域だけで製作されていた地域色の強い技法だということが分かっています。ちなみに今回見つかった破片は、須恵器甕の口縁端部です。画像3の赤丸の部分が該当します。

画像3

 尾張地域だけで製作されていた須恵器が、いまの滋賀県大津市の遺跡で出土しているということは、尾張地域から近江の南西部まで持ち運ばれてきていたことを意味します。須恵器の甕には、大きいものだと100ℓ〜400ℓ以上にも及ぶ巨大な製品がありますから、その場合、一人では到底運べません。今回取り上げた須恵器甕は口縁の一部しか見つかっていないので、その全体像がどのくらいの大きさだったのかはわかりませんが、大甕の破片である可能性もあります。複数人が力を合わせて、尾張から近江へと一所懸命に運んでいる風景が目に浮かんできます。

参考文献

公益財団法人滋賀県文化財保護協会(2024)『滋賀県文化財保護協会調査報告 第3集 大津市 南滋賀遺跡』

髙島悠希(2026)「滋賀県内における猿投窯製品の流入-須恵器貯蔵器種を中心に-『紀要』39 滋賀県文化財保護協会(予定)

髙島悠希(調査課)   髙島悠希の活動情報は【コチラ】

★★ お知らせ ★★

滋賀県立安土城考古博物館 第71回企画展「近江―道が織りなす物語―」

 当協会が指定管理者として運営している滋賀県立安土城考古博物館では、2026年2月14日(土)~2026年4月5日(日)に、上記テーマで企画展を開催します。

 近江(滋賀県の旧国名)は、奈良時代以降、都の置かれた畿内と隣り合う場所として重視され、「道の国」と呼ばれるほど交通網が発達しました。
 古くは「唐橋」と呼ばれた瀬田橋や、織田信長が安土城築城を機に整備した街道など、今なお使われ続ける道もあります。人の行き交う道には、名物もつきもの。風光明媚な景色を描く「近江八景」の浮世絵や、茶の湯の流行にともなって作られた比良焼や臨湖焼といった雅趣に富む焼き物も、道を通じて広まりました。本展では、「この道を通ったのは誰か?」という視点から、県内の考古資料や絵画、古文書、工芸品を紹介します。

 詳しくはコチラのサイトをご参照ください。お待ちしております!

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